日本の墓相・吉相墓の歴史概略

 

隠宅は子孫繁栄の元  

前方後円墳(仁徳天皇陵)

古墳の時代

前方後円墳は角形・円形の陰陽の秘儀を用いていました。
赤彩古墳銅鏡に「長宣子孫」など、子孫繁栄を願って副葬した例があります。子孫繁栄の願いは太古の先祖より現代まで続いている、日本人の心です。
「赤彩古墳」という石室の内部を赤く塗り、魔よけとした例や、内部に四神を配し(風水)、吉相を期した例もあります。 聖徳太子 三骨一廟の墓 叡福寺

古文書

太子伝と徒然草に聖徳太子が「ここを断て、あそこを切れ」と墓相(風水)を使ったことが記されています。
吾妻鏡には、親の墓高きところにありて、その下に住居すれば、その子孫断絶すべしとあります。

江戸時代のお墓

近代墓相

高田氏作 文化年間の人 (家運長久P12)江戸時代の文政の頃、易学者の高田松屋師の「墓相小言」が発行されました。
 高田師作の吉相墓は、夫婦墓を向って右から左へ代々順に建立し、その法則が竹谷式の吉相墓にも取り入れられています。子供は建立もせず、刻入もしませんでした。
高田師の弟子であり易学者の西岡師も同様に右から順に建立し、子供は祀りませんでした。
西岡師の弟子大浦師は、子供は夫婦の戒名の下に刻入して祀るようにしました。

福田海中山通幽式吉相墓多田通幽師(中山通幽尊師)は、無縁墓の清掃と墓相を説き.。師が指導し、多くの無縁仏を祀った化野念仏寺が有名です。
 先祖の供養塔を建立し、供養塔には宝篋印塔と五輪塔があります。夫婦墓には「寿」の字を刻みます。お骨は壷に入れ、石塔の下に埋納します。

徳風会吉相墓(松崎式) 松崎整道師は通幽師より墓相の教えを受けました。お骨は石塔のもとで土に帰し、右奥に供養塔を建立します。供養塔は宝篋印塔と五輪塔があり、夫婦墓には仏の種子を彫ります。

徳風会吉相墓(竹谷式)現在確立されている日本の吉相墓の様式は、初代竹谷聰進師の研究成果によるものです。二十七才のときから三十余年間にわたって墓相の研究に没入し、全国各地のお墓を、モノサシと方位磁石、カメラを持って検分。「墓相・家庭の祭祀・神仏の祭祀・陰徳積み」と、家庭運の関係について調査を重ねました。
 その結果「墓は子孫の禍福と財産の関係を如実にあらわす。墓はその家、その人の運命を拓くだけでなく、一族一家の盛衰にもかかわる」と、その膨大な調査実績において確証を得て 竹谷式の墓相・吉相墓を確立し広く世に知らしめ、昭和二十四年昭和天皇陛下に墓相の話を御聴講いただきました。